Miracle Kidzの吉田社長が、8月30日に亡くなりました。
本当に本当にお世話になった人で、憧れの人で、ライブにも何度も来てくださったり
この人のために頑張ろうと思えた人でした。
この方とのつながりを書くには、かなりたくさんのことを書かないといけないのですが
今自分はコロナ療養中で、時間があるので、書く事にしました。
長文になります。
よしださんは、ゲームのくにおくんシリーズの、ダウンタウン熱血シリーズを作った人です。
自分は子供のころから、くにおくんシリーズが好きな、いちファンでした。
そこからよしださんに声をかけていただき、ゲームの音楽を作らせていただくところまで繋がります。
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私のくにおくんとの出会いは、ファミコン時代に遡ります。
ファミコン発売当初は、自分はファミコンを持っていませんでした。結構親も厳しかったのです。
やっぱり買ってもらえなかった家もほかにもあったようで、
放課後、たまに男子が家にピンポーンとやってきて、「お前んち、ファミコンある?」と聞いてきました。(うちもないよ!)
しかし、自分は5歳下の弟がおり、たしか弟が小1の時に、弟が友達の家に遊びに(ファミコンしに)行ってばかりだからと、
ようやく買ってもらったファミコンが家にやってきます。
そういえばほかにも、あまり自分は漫画を買ってもらえなかったのですが、弟はジャンプを買うことを許されていて、
読み終わったジャンプを私も読ませてもらっていたのを思い出しました。
やっぱり2人目とか、男の子には、親というのは甘いものなのでしょうか。
ともかく、だから自分のファミコンや漫画の知識は、ちょこっと年下の男子のような感じや嗜好だったりしていました。
そんな弟と、いつかのお正月明けに、一緒に自転車でゲーム屋さんに行きました。
当時は新聞に挟まった広告の中に、ゲーム屋さんのチラシがよく入っていたんですよね。それを見て。
「あ、これ友達も持ってる」と言って弟が手に取ったのは、くにおくんシリーズの「ダウンタウン熱血物語」
なかばジャケ買いのようにして、そのピンクの箱のソフトを買って帰りました。
これが私のくにおくんとの出会いでした。
その後、弟たちのソフトの貸し借りなんかもあったりで、ほかのくにおくんシリーズも遊ぶようになりました。
くにおくんシリーズの中でも、かわいらしい頭身のシリーズが、かわいくてすごく好きでしたが、
まさにこれが、よしださんの作ったものになります。
その前の「熱血硬派くにおくん」は、もとはゲーセンのもっと頭身の高いツッパリの喧嘩ゲームで、そのままコンシューマー移植もされましたが
よしださんが、がらっと頭身を変えた、かわいいくにおくんを作ったのだそうです。
よしださんの話では、当時は社長にも、売れなかったらどうしてくれるんだ、なんて言われていたようですが、
結果、ものすごい売り上げを上げることになります。
この、かわいいくにおくんが好きなので、自分はツッパリが喧嘩するゲームが好きなわけではないんです。
くにおくんはそもそもの設定は不良ですが、正義の不良(?)で、いろんなスポーツをやったりします。
必殺シュートに当たったキャラが地球を何周も飛ばされるドッジボール、
木桶を投げたらかぶったまま走ってしまう時代劇、
喫茶店でパフェを頼めばグラスごと食べてしまう熱血物語、
はちゃめちゃなのにキャラクターはかわいくて、大好きなシリーズになりました。
しかもすごいのが、ドット絵で描かれたキャラクターたちは、よく見ると口より下はみんな一緒なのです。
学ランとかの色が違うくらい。目と髪型で、膨大なキャラたちが描き分けられています。
これもみんな、よしださんの作ったものです。
少し話が逸れますが、自分は、今では少しだけゲームの音楽も作らせてもらったりしていますが
当時弟が、友達連中と、たたみに寝っ転がりながらわいわいファミコンで遊んでいるのをよく見ていた折に
野球かゲームばっかりして音楽なんてまったく興味のなさそうな悪ガキたちが、
ゲームで流れている曲をデデデ唱(8bitなファミコンの曲を歌おうとすると、歌詞が自然とデデデになる)で口ずさみながら遊んでいるのがすごいことだなと思って
いつかゲームの音楽を作りたいな、と、当時から思っていました。
ゲームの音楽は特に、ドラクエの音楽が好きで、エレクトーンで弾きまくっていた小学生時代でしたが、
もちろん、くにおくんの曲も、たくさんカセットテープに録音したり、楽譜を書いたりしていました。
話を戻しまして。
このあたりは記憶の時系列がごちゃごちゃなのですが、
・くにおくんを作っているテクノスジャパンのテレホンサービスをよく聞いていた(当時はどのゲーム会社にもテレホンサービスがありました)
・ゲームを買うと中に同封されいてる感想のハガキを律儀に出していた
・コンビニで雑誌「ファミコン4コマ王国」の、くにおくん特集に出会った
このあたりのどれか、もしくは複合の理由で、テクノスジャパン主催の「テクノスジャパンファンクラブ」なるものが始まることを知り、
その、テクノスジャパンファンクラブの会員になります。
のちに、ファミコン4コマ王国はファミコン王国→ゲーム王国と名前を変えていくのですが
ファミコン王国時代に、「くにおくん!熱血勝負!」というくにおくんの漫画を連載した藤井昌浩先生の大ファンになり、
月2回ファンレターを送ったり(隔月の雑誌で打ち合わせも隔月のため、私のファンレターは4通同時に受け取っていたよう)
先生がよく行くファミレスを知ったら、そこでバイトまでして、ついには先生にお会いしてしまうほどの、
今の時代ならストーカーギリギリ(?)の推し活をしたりもしていました。
(藤井先生は数年前お亡くなりになっており、葬儀にも行きました)
同級生の女子たちの中では私は異色で、みんながスラムダンクなどに夢中な時に、
ひとりで、くにおくんくにおくんくにおくん言っていたのを記憶しています。
が…自分が高校を卒業したのとほぼ同時に、テクノスジャパンが倒産します。
テレホンサービスが終了し、ゲーム雑誌にも情報がなくなり…
1995年の話なので、今みたいに、検索すれば情報が出てくるわけではありません。あとあと、やはり倒産したのだとわかりました。
最後の頃は、もうゲームをちゃんと作れる人は残っていなかったと聞いておりますが
よしださんも、その頃にはもうとっくにテクノスジャパンにはいなかったそうです。
くにおくんは、高校生のキャラクターなので、自分と一緒に高校を卒業したのだ…と思うことにしましたが
なんとももやもやした気持ちが収まらず
ある時、くにおくんのファンサイトを作ることを思いつきます。
当時は、まだホームページやらインターネットの黎明期で、テレホーダイとか言ってた時代で、
gooとかインフォシークとか検索エンジンで「くにお」と検索しても
「お近くにお越しの方は…」という文章しかひっかからなかったりする世界線です。
Yahooに載せてもらうためには、自らのページを自己推薦する必要があったりもしました。
その時作ったくにおくんのファンページは「くにおMANIA」というサイトで、今でも残してありますが
大人の事情はなにも知らず、ただの純粋な好きという気持ちだけで作ったサイトです。
くにおくんファンやくにおくんを作っていた人が集まってくれば、くにおくんの情報がわかったり、いつかまたくにおくんに会えるかもしれないと思っていました。
その後、2~3年で、徐々に同じようなくにおくんのファンサイトも増えて行きました。
ウェブリングに登録してくれるサイトも一時は40サイトほどあったり、
掲示板でのくにおくんファン同士の交流も、とても活気にあふれ楽しい時期でした。
そんなある時、元テクノスジャパンの海老沼さん(ダブルドラゴンを主に作っていた人)が
私の くにおMANIAを見つけ、書き込みをしてくれました。
「こんなサイトがあるなんて驚いた。」「必ずや、みなさんを、元テクノスの人達に会わせます」
といった内容だったと記憶しています。
そして、海老沼さんのおかげで、元テクノスの人達に本当にお会いする日がやってきます。
海老沼さんとしても、特に私に合わせたかったのが、よしださんらしく、
お会いする前に、よしださんとは電話でたくさんお話もできたのですが
私が仕事の研修で大部屋にいる時だったのを覚えているので、2000年の3月くらいのことだったはずです。
もうめちゃくちゃ早口で、ひとつ紐を引っ張ったらその先のものが芋づる式にたくさんたくさん飛び出してきて、
はじめはメモを取って聞いていたら何ページにもなって、だんだんこっちがわけがわからなくなってきて、それでも全然話が終わらなくて
とにかく泉のようにアイディアが湧き出る、こんな人に会ったことないというくらい、わけもわからずものすごい人でした。
電話も、一度話し出すとすごく長くなってしまうのです。
確か、よしださんにリアルで初めてお会いできたのは、
元テクノスの人が何人か来るという飲み会に参加させていただいた時だったかと思います。
よしださん以外にも、この人はくにおくんに出てくる誰々のモデルだとか、この人は何を作った人だとか、
貴重な方々ともお会いして、緊張しまくりだった記憶です。
掲示板で有志を募り、くにおくんファン数人で集まり、うちでゲーム大会をしたこともあります。
よしださんもその会に来てくださり、みんなにくにおくんの貴重な話を話してくれました。
それまで常々、こんな貴重な話を自分一人で聞いているなんて勿体ないと思っていたので、
集まった何人かにもよしださんの話を聞いてもらえたことがすごく嬉しかったのを覚えています。
ファンからすると、本当に夢のような時間なのです。
その後も、くにおくんファンの何人かで集まる機会を何度か設けました。
いつかくにおくんを復活させたいという思いもあり、プログラムのできる人など定期的に人を集めていたと思います。
お花見をしよう!と企画した時には、やっと予定が合った頃にはもう桜は散っていて、
「葉っぱ見」として集まりました。
よしださんがつんつん、としてくれて、見ると、上を指差していて
「こうやって葉っぱに街灯の光があたると、花みたいに見えますね」
といってニコニコしていたのを思い出します。
葉っぱ見も、2、3年くらいやったような気がします。夜の市ヶ谷の公園で。
他にも、何の時だったか、新宿でふたりで始発を待って話していたこともあります。
その時もとにかく話が芋づる式です。お腹が痛い、眠い、と思いつつ、よしださんの話を聞いていました。
すらっとして格好良くて、長い髪をひとつに結わえ、雪駄ですごいスピードで歩き颯爽と「おつかれさまです!」と現れるよしださん。
とてもとても変わった人だけど、とにかく純粋にゲームづくりのことばかり考えていて、
憧れのクリエイターとしてすごく尊敬していました。
そして、自分みたいな者にも、常に丁寧語で話される人でした。
そして、数年経った頃、本格的によしださんが動き出します。
くにおくんを作ろうと、神田の魚民で何度もファンの有志で集まっては、何を作るとかいろいろ話しをして、
その度に、よしださんはみんなに一生懸命ご馳走をしてくれるのでした。
よしださんは、お肉を食べないので、いつも魚民です。
お肉は、昔は食べていたけど、本来の人間の持つ不思議な力が出るから、お肉を食べないのだと私は聞いていました。
よくナッツをモミモミして塩を落としながら食べていて、
「ナッツを食べると綺麗になりますよ、みんなが振り返るくらい」などと言って私にも勧めてくれました。
さあ、いよいよ、いろいろ整って、くにおくんがまた復活できるぞ!ということになった時、
くにおMANIAでお知らせしてください、とよしださんに言われて、書いてみたのですが、
インターネットの海で、エセ情報だとか、さんざん叩かれました。
(その後、実際にくにおくんのドッジボールをリリースするという記事が出て、誤解は解けました)
くにおMANIAは、今では到底考えられないへっぽこサイトですが、当時はほんのちょっぴり拡散力があったのです。
掲示板もたまに荒れることもありました。
なにしろテクノスジャパンの社長、瀧くにおさんが「俺が本物のくにおだ!」と書き込みをしにきてくれたこともあったのに
みんなに「偽物だ!」と叩かれて、しゅんとさせてしまった、なんてこともあったのです。
(これもよしださんから聞いた情報です。なんなら自分も偽物かもしれないと思っていました)
そして、よしださんがゲームリリースに先駆け株式会社Miracle Kidzを設立します。
Miracle Kidzでは、ゲーム作りをするのと、今までのくにおくんの資料を本などにして、即売会などで売り始めました。
コミケにも出ました。
その時新発売の本やCDがみんなブースに届き、それがものすごい量で、
暑くて暑くて、人もものすごくいっぱい来て、ほんとうに戦場みたいでした…。
あそこは企業じゃないのか、版権は大丈夫なのか…
叩いたり、いろいろ問題視する人もいました。
でもよしださんは、版権については瀧さんにOKをいただいているのだから問題ないと、自分なりにクリアにしたやり方でやっていました。
ごく最近は、イベントはゲームレジェンドにだけ毎回参加していました。
よしださんだけがサークルの入場チケットを持っているので、
手伝いで行っても、よしださんが来るまで本来は入れなかったりするのですが
「よしださんからチケットをもらってなくて…」と説明したら、
「よしださんですかぁ、なら仕方ないですね〜」とスタッフの方から許可をいただき、入れていただいたこともありました。
そんな風に、人間性に惹かれる味方もたくさんできる人でした。
ブース内でにこやかに立っているよしださんを何度も見たり、話した方もいると思います。
新作への意気込みや懐かしい話など、気さくにみんなに話していました。
自分も最近はすっかり、イベントの売り子くらいの仕事しかできていませんでしたが
在庫はうちに置いてあるものもあったし、せめてそれくらいはさせていただきたいと思っていました。
敵を作ることがあっても、
「私はよしださんのためにこれをやりたい、よしださんのために頑張ろう」
ただただ、そう思っていました。
「集い」として、ファンのみんなで集まる会も何度かやりました。
体育館に大人40人くらい集まって、リアルドッジボールをしたこともありました。
よしださんは、ファンとの交流も大事にする、とても気さくな人でした。
また、よしださんは、誕生日には必ず、仲間にお誕生日おめでとうラインをくれました。
誕生日にはすごく敏感で、くにおくんに出てくるキャラたちも、動物占いとかをしっかり調べて誕生日を決めているようでした。
ゲームは、ドッジボールを作りました。自分も音楽を担当しました。
はじめはPC版、その後Xbox版、Wiiウェア版と、ステージが増えると音楽も増やし、作っていました。
よしださんはもともと音楽をしていた人なので、音楽面でもよくアドバイスをいただきました。
ちょうどWiiのドッジボールの音楽を作っている時、2011年の震災が起きて
自分は恐怖のあまり、何日かは、何も作業ができなくなってしまったのですが
よしださんが「私たちの毎日は、何も変わっていないですよ」と冷静にアドバイスをくれて、
その後、頭になにも音楽が思い浮かばないところから、言葉通り七転八倒しながらも、
なんとか、なぞのぐんだんの曲や、神社ステージの曲などを書きました。
すごくいい感じになってきた、とよしださんが褒めてくれたのを覚えています。
それで、やっと調子も戻ってきて、全曲作り終えるに至りました。
音楽といえば、よしださんは自分のライブにも何度も足を運んでくれました。
1年に1回、ワンマンライブをしているのですが、とくにその時など大事なライブの時はよく応援に来てくれました。
自分が声がうまく出せなくて悩んでいる時は、ボイトレについてのアドバイスをもらったり
あの曲はこういうふうになるともっといい、など音楽面のアドバイスもたくさんもらいました。
なんなら、ジャズピアノのレッスンのやり方のアドバイスまでもらったこともあります。
最後には、コロナ前の2019年の自分のオーケストラ編成ののライブに遊びにきてくれました。
よしださんは最近も、いろいろと作っていて、今年の4月には私も作業のお手伝いをして、データのやり取りもしました。
その際、電話で話した時には、体の具合があまりよくなさそうでした。
腎臓も片方なかったりで(子供の頃からのようですが)、
「外へ出るには、体の水分をお風呂とかで出し切ってからでないと難しいから、いつもなかなか待ち合わせに時間通りに行けなかった」
ということも話していました。
確かに、よしださんはいつくるかな、そろそろくるかな…と、待っているシチュエーションが今までよくあったなと思います。
この時は忙しくて、そこまで真剣に話を聞けなかった気がして、すごく後悔しています。
もしかしたら、かなり体調が悪くて、暗に自分に何かあるかもと示唆していたのかもしれません。
ここ数年はよしださんは痛風にも悩まされていて、イベントに来た時に手の指がぱんぱんに腫れていて
「これでもだいぶよくなったのです」と言っていてびっくりしたこともあります。
手の痛風は足の何倍も痛いようで、普通なら耐えられないような痛みでも、どういうわけか我慢してしまっていたのではないかと思います。
もっと早く、病院に行ってくださいと言うべきだったのか、言ったら行ってくれたのか、わかりませんが
8月28日に、ご兄弟の方に、体調が深刻であることを連絡し、救急搬送され、
はじめはまだ意識もあったけれど、容体が悪化し、管にたくさん繋がれて話せなくなり、
そのまま8月30日に亡くなったそうです。
こちら、ご兄弟の方と連絡を取ってわかりました。
死因は細かく聞いていませんが、心臓がよくなかったそうです。
コロナ禍でなければ、みんなで参列できる葬儀もあったかもしれません。とても残念です。
長く長く、書きましたが、とにかく、自分がくにおくんにここまで関わって来られたのは、よしださんのおかげなのです。
本当に、人生を変えてくれた人です。
こんなにたくさんの人たちと知り合えたこと、たくさん勉強をさせていただけたことも、すべてはよしださんのおかげで、
思い起こせば、笑顔のよしださんばかり浮かんできて、とても悲しいです。
まだまだたくさん物を作りたかっただろうし、この先への構想もたくさんあったし、
途中まで作って立ち消えになったものも、たくさんあったはずです。
あくまで、Miracle Kidzは社長よしださん一人ものので、私も社員ではありません。
お世話になってきたよしだキッズ達で、できる範囲ではありますが、
いつかそれらを形にできないか、これから話し合いたいと思っています。
私はものづくりという点では音楽しか作れませんが、
集いの企画の経験もあるので、もうすこしコロナが落ち着いたら、いつか必ず、よしださんの会を開きたいという野望があります。
あれだけ、みんなでわいわいするのが好きな人だから、それを望んでいるはずと思います。
せめてそうして、未来のことを考えていないと、よしださんがいないという事実に押しつぶされそうでダメなのもあります。
よしださん。最近は痛かったり、つらかったりしたでしょうから、少しはゆっくり休んで…
と言っても、きっとあなたはあちらに行っても、まだまだゲームを作り続けたいのだと思います。
これからは、思いっきり、大好きなゲームを作ってください。
私もいつかあちらに行った時、遊ぶのを楽しみにしています。
そして私は、いつかよしださんもびっくりするような、いい音楽を作り出せるよう、こっちでもっともっと頑張ります。
本当にありがとうございました。